1999年7の月・・・・と言うのは何となく皆さんは知っているでしょうね。(何を今更と思うでしょう)
あれほど騒がれた《人類滅亡》の予言書と言われた『ノストラダムスの大予言』を信じる人は今ではほとんど見かけません。
”1999年7の月、人類は滅亡する”と一般には言われていた予言書ですから、「当たらなかったじゃない」と言うことで「あれは嘘だよ」となり今では取り上げられることも無くなりました。
しかし、『ノストラダムスの予言』と言われるものはノストラダムス本人が書いた節に分かれた膨大で難解な『詩編集』を後世の人間が予言書として読み解き、人類滅亡とか、ヒトラーの台頭とか第二次世界大戦など歴史に照らし合わせ、それを膨大な詩編集から拾い集め〔ノストラダムスは偉大な予言者〕として注目を浴びていたのです。
私自身も色々な方が〔予言書〕なるものを独自の視点で読み解き書籍を読みあさっていましたし、その当時は、「人類滅亡はあり得るかも知れない」と、それが当たり前のように覚悟していました。
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私自身は色々な大予言系書籍の中で、”1999年7”の滅亡説は信じていませんでしたが、”その後の世界”も書かれているだろうと独自に読み解いていた方の書籍が有り、その方は”アンゴルモアの大王”などは存在しない”としながらも”ノストラダムスの詩編集は予言書”と考えており他説の「間違い」なども取り上げていました。
私がその方の書籍に一番共鳴を覚えたのは、”アンゴルモアの大王”ではなく、未来の世界を詩編集を独自に読み解き『人類滅亡は音もなく忍びより徐々に訪れる』と言うような表現で書かれた部分でした。
『中東や各地で起きる終わりの見えない戦争』、『狂い始める自然の驚異が人類を死滅に向かわせる』、『人としての種が有るべき姿を見失い滅亡を招く。』等々、今現在の世界情勢を見るとまさに当てはまることが解る。
勿論、これがノストラダムスの予言で有るとは断言できないが、それを独自に読み解き解説して見せたその著作者には、今の世界情勢が見えていたのかも知れない。
私自身、この書籍を読むことが無ければ、今の世界情勢が『滅亡への始まり』みたいな考えを持つことは無かったと思う。
しかしどう考えてもこの先、人類に明るい未来はない。
近代兵器による驚異は、あの”冷戦時代”以上に危機感をはらみ、核兵器や細菌兵器があの時代より危険な状態に有ることは今の世界情勢を見れば一目瞭然だろう。
しかし多くの人々は『明るい未来』を信じ、”科学技術が人類を守り未来を切り開く”と当然のように思って居る。
嫌、思いたいのだろう。
私のような者ですら、人類の未来は明るいものではなく、決して避けられない滅亡への道筋を辿っているようにしか映らない今の人類文明。
経済の視点から見てもそれは伺える。
資本主義と言う自由競争を世界に広めようとする〔超大国アメリカ合衆国〕。
例えどんな武力、経済力を使ってでも自らの正義を”世界平和への道”と考えるアメリカ合衆国。
当然、それに異を唱える勢力は、”武力の行使も厭わない反抗(テロ)”を現実に起こしている。
多種多様な考え、文化が有って当たり前の世界にあって、一つの秩序で統一しようとすること自体、無理なことであり、それでも”危険な思想の排除”を常套句として行われる軍事介入は、私には〔インカ帝国を滅ぼしたスペイン〕の様にしか見えない。
軍事介入を隠れ蓑に自らの国益を優先するための経済侵略であり、”我が意に反する者の存在を許さない”暴君のそれと酷似している。
元々アメリカ合衆国は、冷戦時代から”アメリカが世界の盟主であり人類をリードする立場でなければならない”と言う考えで動いている国であるから〔我が国が持つ核兵器は平和利用であり、他国が持つ核兵器は脅威である。〕と自らの正当性を宣言する。
そのアメリカと同盟を結び”世界平和に貢献している”と信じている我が国〔日本〕。
資本主義を唱える日本である以上、アメリカに付随するのは当然の成り行きだが、本当に資本主義は人類の有るべき正しい世界なのだろうか?
経済と言う戦いに勝った者は栄華を恣にし、敗れた者は『負け組』と罵られても生きていかなければ成らない、今の日本。
国民の平和のために存在するはずの国家が国民の命を”正義の戦争”というお題目で失っても尚、国益を優先するアメリカ合衆国。
”国益こそ正義、それを脅かす力は倒すべき悪”とでも考えているのだろう。
それが今の人類文明の大きな流れである。
右手に『平和』と言う聖典を持ち、左手に『武器』を持つ生き物、それが文明社会の人間という種族。
”地球温暖化を防ぐために温室ガスの規制が必要”と言いながら”経済に与える影響が大きい”と言って地球的規模で起きている異常気象を目の当たりにしながら”経済を優先するためにはやむを得ない”と先送りにしている現状を見るだけでも、人類の未来に希望など有るのだろうか?
生物には『増えすぎた種を守るために自らを犠牲にする』という行為が有る。
無限に増え続けることが許されない自然の摂理で有り、どんな生物にもそれは当てはまる。
この摂理は人間にも当然課せられた生物としての”理”で有る以上、今の人類を見るとその”摂理”が始まっているように思えて仕方がない。
だが、その解決法を知らない私たちにはどうすることも出来ないのも事実。
『バベルの塔』で共通の言語を失った時から人類には、”世界平和”は夢の又夢なのだろうか?
人類が考えなければならないことは、科学技術での世界平和ではなく、『自らの限度を知り、摂理を守って種を絶やさぬ努力』が今求められているのでは無いだろうか?
このままでは、”ノストラダムスの大予言”が真実の予言書に成ってしまう事だけは避けられないかも知れない。
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